献眼・角膜移植体験者の声

献眼者より

愛を結ぶ 献眼者の遺族の声

(1999年5月に献眼した、亨年68歳M・Iさんのご長女の手記)

昨年秋のある日、新聞のテレビ番組の解説に、父がお世話になっている病院の名前を見つけたことから、父の角膜提供の話ははじまります。その病院内にあるアイバンクで働くお若い先生のことが中心となったその番組を私が見て、父に角膜提供の話をもちかけますと、「そうだな、この次に入院したときにでも話を聞いてみようか」と申しました。

それは、父が末期の胃癌であることを告知されて、抗癌剤治療を受け、小康を得ていた時でした。けれどもその後、副作用のために治療ができなくなり、入院することなく月日が過ぎていきました。今年に人ると父は体調の不良を、訴えるようになり、春にはほとんど食事ができなくなってしまいました。4月上旬に入院、すぐに家族はあと1ケ月ほどの命と知らされたましたので、迎日父に「今度人院したらアイバンクのお話を聞くんだったわよね」と話し、翌日お話を伺うことにしました。「いいよ、歩いていくよ」という父を、まあまあと車椅子に乗せ、お医者様とコーディネーターの方からのご説明を受けに行きました。お話を伺った父はにこやかに、「私の角膜は、あと4、5年は使ってもらえるのでしょうから、よろしくお願いしますよというようなことを申しました。そして病室に戻り、2人でそれぞれの承諾書に署名をしました。父の角膜がお役に立ったのは、それから1週間ほどしてからのことです。

後日、2つの角膜は、60歳代と80歳代の2人の女性に移植され、経過も良いというご報告を頂きました。父の角膜が2人の方とともに生き続けていることで、68歳という、家族にとっては早すぎた父の死が、いくぶん受け入れやすいものとなったような気がしています。

開眼者より

光をもらって

沖本 秀子 (広島県安芸郡) 1999年(平成5年)記

私の角膜には、生まれつき混濁があり、視力は年々悪くなっていきました。視力を回復するには角膜移植しかないと知りながらも何か怖いような気がして、学校の授業や毎日の生活に苦労しているにも拘らず、放置していました。

そんな時(もう七年も前になりますが)高校の先生に紹介されて呉市内のある眼科を受診し、角膜移植の説明を受けました。

医学は常に進歩していて、目の手術だからといって特別の心配はなく、皮膚の移植と変わりありませんと言われ、それまでの不安もなくなりました。

実際、手術は夢心地の中で終わり、次の日眼帯を外した時、とてもまぶしい光が入り込んできて、自分の着ていたパジャマの色鮮やかだったこと、退院して帰り道の風景、山々の青々としたこと、「ああ忘れてしまっていたんだ、こんなきれいな世界を」と感動しました。

手術後の経過も良く、卒業後就職もでき、さらに好きな手芸等もできて、何より今こうして自分の書いている文字が見えるということは、この上ない喜びで、献眼してくださった方に感謝しています。

角膜提供者とアイバンクに感謝

山本 達子(74歳) 2001年(平成13年)記

私は平成12年に左眼の角膜移植をある眼科でしていただきました。母の話では私が生まれるとき難産のため、鉗子分娩になったそうです。その際、左目の角膜に鉗子が少し当たって角膜が弱くなったのだろうと、後に地元の眼科の先生に聞きました。右眼の方は良く見えていた事もあり、私自身は左眼のことはあまり気にもせず過ごして参りました。

ところが、突然、あまり見えない左目が痛み出して涙も止まらなくなり、気が付くと左目は全く見えなくなっておりました。

眼科で診て頂くと、角膜潰瘍と水泡性角膜症と診断されました。
「痛みを完全に取るには角膜移植をするか、眼球を除去して義眼にするしか方法が無さそうです」といわれ、途方にくれ又々涙が止まりませんでした。その時先生がおっしゃった言葉が今でも忘れられません。「義眼にするということは、もう一生涯見える可能性がなくなるんよ。でも角膜移植をすれば少しは見える可能性があるんよ」と。

でも、私にとって角膜移植手術など遠い世界の事で、重病の方それも若い方が受ける手術だと、ただ漠然と思っておりましたので、「先生、私のような年寄りに角膜を下さる方がいらっしゃるんでしょうか」と尋ねましたら「少し日にちがかかるけど、登録しておけば貰えますよ」とおっしゃって下さり、半信半疑ながら角膜を提供して下さる方の出現を待つことにしました。手術を受けるまで目が痛むのは我慢しようと腹を決めたら、意外に早く角膜を頂く事が出来て手術となりました。その上手術は大成功で、術後もすべて順調で先生も「良かった、良かった」と一緒に喜んでくださり、私自身はもう嬉しくて有難くて「みんな先生のお陰です」というと先生は「本当は僕の力じゃないんよ。角膜を下さった人やアイバンクの活動をしている方に感謝をしなくてはね」と。

私はその時初めて、角膜を提供して下さった方とその角膜を仲介して下さるアイバンクの支援があったからこそ手術を受ける事が出来たのだとやっと気づいて、角膜を提供して下さった方や皆様に「有難うございました」と心の中で手を合わせました。

術後は本当に順調に回復して、段々と視力も良くなり、思ってもいない位信じられない程よく見えるようになり、生まれて初めて両方の眼で物が見られるようになりました。

それもすべて先生と角膜を提供して下さった方やアイバンクの皆様のお陰と心より感謝しながら日々を過ごさせて頂いております。

いつもご一緒に

熊谷 貞子 2000年(平成12年)記

あなたが、私の眼になって下さったのが平成九年の春、あれからの日々何度となく、色々なシーンで「ありがとう」を言っております。

私は商売をしておりまして、お客様のお好みと御注文は殆ど憶えておくよう努めています。以前は、お客様の声色と、姿で察するようにしておりました。又、書類や帳簿を見るのは拡大鏡が要りました。でも今は、ちゃんと見えております。歩いていて障害物や、段差もちゃんと確認出来ます。それに今は、乗り物の行先が読めて、乗りたい意思表示が出来ます。これって、あなたには何気ない日常茶飯の事でしょうが、私には大変な事です。うれしかった。

移植に関しての不安は全くなかったのですが、私のような年取った者が、角膜を戴くのは若い人に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。でも、見えるようになってみて、何事にも勇気と自信が出て、毎日が楽しいのです。この日常は、私の大切な時間となりました。

少しでも多くの美しいものを見、心ときめく瞬間を一度でも多く持ちたい。今まで以上にボランティアにも参加し、人生を充実させたい。あなたと御一緒に。

末筆になりましたが、もう一度、あなたと御家族に心よりお礼を申し上げます。

又、移植のために心と技を尽くして下さった先生方、それを支えられたスタッフの皆様、大変お世話になりありがとうございました。

そして一度どうしても申し上げたかった、このお礼の気持ちを表わせる機会を下さった、ドナーバンクの方々に感謝しますと共に、これからの御活躍の程お祈り申し上げます。

暗闇から救われて

重森 正巳 1996年(平成8年)記

私は25年前頃から両眼を病んでいました。角膜がボロボロにめくれて、光がまぶしく痛くて瞼をあけることもできませんでした。

角膜変性とかで、症状が強くなるたびに眼科へ入院を繰り返してきました。仕事はもちろん自分のこともまともにできなくなり、失明を覚悟して点字を習うことにしました。

当時わたしには母と妻と3人の子供がおり、小さな食料品店をしておりましたが、大型のスーパーやコンビニに押されて閉店を余儀なくされました。収入の途は途絶え家族全員の支えでなんとか生活はしておりましたが不安と絶望の日々でした。

そんなある日、ラジオでアイバンクのことを耳にし眼科を受診しました。「角膜移植をすれば見えるようになる」の言葉を信じ、一日千秋の思いで角膜移植を待ちました。幸運にも3年前右目に移植を受けることができました。

眼帯がとれた日、世の中がこんなに明るく美しいものか……言葉にならない感激でした。いまでは左眼の移植もおわり、視力(1.0)の世界にかえりました。28年間の長い暗い人生を振り返り、ただ感謝の日々です。

「透明な角膜」という素晴らしい贈り物を残して逝かれた献眼者のご冥福を祈り、医師やバンクの皆様にお礼を申し上げます。